本記事では、以下の解説をしています。

  • アシュタンガ・ヨガの第二部門【ニヤマ】について
  • 【ヤマ】に続く、対社会的な自己制御=【ニヤマ】について
  • 【ニヤマ】の実践が【解脱】への第一歩である理由

ルール

ルール、規範を意味する言葉で「日常生活で自分に対して推奨される行動」として【お勧め事項】にあたるのが【アシュタンガ・ヨガ/八支則】の【ニヤマ】です。禁止事項の【ヤマ】と同様に以降のヨーガ行法体系の前段階として、日常の行為ふるまい自分自身に向き合う態度において守るべき規律を表しています。物事の考え方など自己制御することが勧められる内容です。パタンジャリは5つの【ニヤマ】を挙げています。

  • シャウチャ/清浄
  • サントーシャ/知足
  • タバス/苦行
  • スヴァディヤーヤ/聖典読誦
  • イーシュバラ・プラニダーナ/自在神への誓願

(※【アシュタンガ・ヨガ/八支則】の概要については、以下をご参照下さい)

 

シャウチャ/清浄

清浄・純粋という言葉で、自分の身体・心・言葉などの自分の内外の全てを清らかに保つこととされています。

「清浄(シャウチャ)によって、自己の肉体への嫌気が生じ、他人の肉体と接触しなくなる」

YSⅡ−40

自分の身体からは絶え間なく不浄なものがでていきます。汗、呼気や唾液など全てです。清潔に保っていても体内からは臭いも発生します。それを香水や服装などで隠そうとしてもキリがありません。そのことを本当に理解すれば、自分の肉体をよく見せよう、隠そうとすることもなくなり、憧れもなくなります。貪る心がなくなると自分の肉体への関心に費やしてきた時間をより高次な目的の為に使用します。自分の肉体への関心が薄れているので、肉体よりももっと本質的なものへの興味に対して時間を費やすことになります。人はより高い目標に向けて行為するため、自分の肉体に対して、また他者に対しても自然と無関心となるのは当然なことだと考えられます。

受け皿となる空間があり、人は存在できます。社会という空間があって自分が存在できます。その社会の空間を作るのが【ヤマ】【ニヤマ】の実践によって、肉体としての「ワタシ」が存在し、強靭な肉体の中があってはじめて、正しい智慧に基づいた心が宿ります。正しい判断基準なしに心が「ワタシ」というものを他者に求めると【我執/アハンカーラ】が生まれます。

(※【我執/アハンカーラ】については、以下をご参照下さい)

私達ができることは、準備することだけです。何時にも備え、常に調整し、高めていく努力をすることによって【気付く】ことが必要なのだということです。

更に、善性(サットヴァ)の浄化、快活さ、専念性、感覚器官の制御、真我直覚への適応性が生じる。

YSⅡ−41

肉体を理解すると心も浄化されます。心が純粋であれば、物事への集中も難しいことではなくなります。【人間馬車説】において、感覚器官と例えられる馬車の馬が暴れまわるように欲に翻弄されるのは、心が不純だからとヨーガでは捉えられています。

馬車

馬車をコントロールするには、【馬/感覚器官】と【手綱/マナス】を制御する必要があります。心を制御する方法は、【人間馬車説】で語られています。【感覚器官/馬】を制御することで自己の内部をより深く観察することができます。大きなことを成し遂げる必要はなく、目の前のことを1つ1つクリアすることに集中するだけでOKです。それにより、「ヨーガの人間観」における【真我/アートマン】の「ヴィジョン/未来像・構想」を理解することができます。これが【清浄シャウチャ】を実践する効益とされています。

サントーシャ/知足

  • 足るを知る
  • 満足

と訳されます。

「身の程をわきまえて、むやみに不満をもたないこと」。分相応というのがポイントなのですが、人間はなかなか現状を認めなくないのです。「自分はすごいんだぞ」と自慢をしたり、「強く見せたい」「よく見せたい」という欲があります。他者を意識しすぎるが故の欲とも考えられます。今以上に貪り求めず、現在与えられているものの中に満足/感謝すること、足りていることを見つけることです。他者を「うらやむ心」を含めて、外部環境へ欲を満たす対象物を求めていかないことです。あきらめる」のではなく、あくまでも「受け入れることによって心の平静を保つことができます。

「知足によって、無常の幸福(スッカ)が得られる」

YSⅡ−42

【サントーシャ/知足】の結果として、無常の喜びを得ることができるとヨーガ・スートラでも収録されています。好悪で判断することもなく、損得感情で判断することではなく、「来るもの拒まず、去るもの追わず」「まぁ、いいか」という心の状態であり続けることが必要になります。

OK

これ以降の

  • タパス
  • スヴァディヤーヤ
  • イーシュバラ・プラニダーナ

【ヨーガ・スートラ】における【クリヤ・ヨーガ】とされています。教典の中には具体的な内容はありませんが、クリヤーの実践によって、煩悩を弱める効果があるとされています。

タパス/苦行

苦行と聞くと、耐え難い苦しみの中の修行や我慢するようなイメージですが、現代的には【努力】することです。身体を苦しめる行為はその他の聖典では、【禁忌事項】とされていますので、極端な修行をすることとは意味が異なります。

「苦行によって不浄さが尽き、身体と感覚器官の制御に熟達する」

YSⅡ−43

肉体に少しずつ負荷をかけていくことによって、強くなっていきます。これは心にも同様なことが言え「もうダメだ」という状況を経験し、乗り越えていくことによって【自信】がうまれます。【自信】とは、行動のあとにうまれるもので、妄想などがない限り行動前から自信もつことは不可能です。

自信のつけ方は、何かに挑戦する少しの勇気のみです。勇気が心の強さが影響しまず挑戦し、叩かれ、引っ張られ、投げられ・絞られることで強くなっていきます。時には侮辱されることもあるかもしれませんが、反射的に反応せず、謙虚にいることでさらに心は磨かれていきます。対峙し、相手に不快な思いをさせることでは何も解決しません。そんな言葉に「ありがとう」と感じることができなくても、「受け取る/反応しない」ことも【タパス】です。

苦しみを苦しみで返したり、殴られたら殴り返すことは誰でもできることです。しかし、それに甘んじず、「受け取る/心の強さ」をもつことが【タパス】では求められます。強い心があればもはや苦しみは苦しみではなくなります。それには勇気と強さが必要になるのは言うまでもありません。

このように考えると、現代社会の中で生きること=【タパス/苦行であると言えます。タパスを実践する機会は毎日山のようにあるということです。

目標に向かっていくには、目標へ向けるエネルギーが必要であり、【清浄/シャウチャ】によって、【アートマン】のヴィジョンを理解することや純粋な力で行為することだけに集中すれば結果は自ずとついてきます。自分の都合の良い理由を見つけ、妥協することは簡単にできます。しかし、妥協することでその人は、「やる気があれば本当はできた」と、人生を「可能性の中で生きる」ことになります。可能性の中に生きることこそ「生きながら死んでいる」「息苦しい生活を促進する」生活を送っていくようなものです。このように日々の生活から【心身の自己制御】を実践することが求められます。

スヴァディヤーヤ/聖典読誦

心を調える働きを持つ聖典を読むことで、自分の心を善い方へと向けていきます。教典にはたくさんの格言や【人生の智慧】が集められています。自分の中に落とし込み、「得た知識を実生活を通じて、智慧とし、人格を成長させる」ことを意味します。実践によって自らを研究していく姿勢、より深く探求し、本質的な【気付き】を増やしていくことです。

「聖典読誦によって、自選の神様と出会う」

YSⅡ−44

絶え間ない努力によって、自らの特定の神霊のヴィジョンを得ることができます。神霊とは、「人知では計り知れないような徳、神秘的な尊さ」のことを指し、ある1つのことに専念をすることによって、おのずと現れると言われています。これを形をもっているかもしれないし、そうではないかもしれません。

  • 身体を知り
  • 呼吸を知り
  • 心を知り
  • 真我を悟る
  • 集中を深め
  • より本質的な部分に触れた時

神秘的な尊さ出会う可能性があります。まず自身を知る努力を常々実践していくことが望まれます。ヨーガの【究極目標/三昧】への導きの助けになる、【クリヤー/行い】とされています。

イーシュバラ・プラニダーナ/自在神への誓願

【献身の生活】とも訳され、人、物、無機物をも含め【全てのもの/イーシュバラ】へ感謝の気持ちをもつこととされます。全てのものに【イーシュバラ/自在神・支配者・絶対神】は宿っているとされています。【神/全世界】のために奉仕することを指します。また世の中や自分に起こる全てのことを受け入れ身を委ねることとされています。

祈り

行者の場合は、心を統一して【三昧】の境地に入ることを目的としており、その補助的手段の方法ともされる【無想三昧に近づくことができるとされています。

「自在神への誓願によって三昧に熟達する」

YSⅡ−45

日常の全てのものに感謝することはできます。例えば、食事の前に手を合わせ、「いただきます」と言うことも誓願にあたります。人は何か所有しているものを失うことには不安があります。それが物質的なものであれ心的なものであっても同様です。「何か成し遂げたい」と思う目的があって、それを「達成できないかもしれない」という時に不安が表れます。何かに執着しているということを表しています。”私”が全てのものを放棄すれば、所有するものはなく、執着する対象も何もなくなります

つまり【放棄】し、全てを捧げることが【三昧】に到達する方法であると告げています。

私達の社会で理解するには、全てのものに感謝尊敬の心を持ち、献身的な心利他的な気持ち(感情・思考)を持って生きていくことの大切さを示しています。自分ではどうすることもできないことも「何で自分だけ・・・」と嘆き抵抗しようとするのでは、摩擦をうむだけです。それを積極的に【受容】して生きていこうとする心のことと考えられます。

まとめ

【ヤマ】【ニヤマ】も1つ行うと全てが自然に行われるとされています。これら2つの部門は、人間関係や出来事を通した対社会次元の自己制御能力を養っていく部門です。自己制御能力が向上することで、心身と執着・こだわりを離脱させることが可能になります。次第に心は【清浄】で静穏になります。まるで【瞑想】を行っているような穏やかさを迎えることができます。