蓮

yogaには、象徴とされるシンボルがいくつか存在します。その一つの「蓮華」(ハスの花)は、yogaに限らず様々な思想で用いられています。では、「なぜyogaで蓮華が用いられているのでしょうか?」今回はこの理由について解説していきます。


蓮の花

蓮の原産地はアジアやオーストラリア原産。日本へは中国から渡来し、池や水田で広く栽培されました。根茎は泥の中に存在し、秋には末端が肥厚します。地下茎肥大部は、食卓でお馴染みの蓮根(れんこん)です。葉は円形で長い葉柄で、夏には水上につき出た花茎の頂に紅色ないし白色の花をつけます。葉から根までの間には、新鮮な空気を地下茎に送る通気口があることで泥の中でも成長することができます。

なぜ象徴になったのか?

蓮は泥より出でて泥に染まらず」という言葉があります。

「泥中の蓮は、たとえ汚れた環境の中であっても、それに染まらず清く正しく生きるさまのたとえ」

引用:故事ことわざ辞典

蓮の葉の持つ撥水性(ロータス効果)により、蓮は泥の中でも成長しながら、その花は決して泥に汚染されることがありません。その為、蓮華は、古代インドの聖典などでも清らかさや聖性の象徴として称えられていると考えられています。

また仏教においても、「極楽浄土に往生した者は蓮の花の中に生まれる」と説かれ、特に極楽浄土や往生の象徴とされています。これが「一蓮托生(いちれんたくしょう)」の語源となっています。

「一蓮托生」とは、

「結果の善し悪しに関わらず、人と運命や行動を共にすること。 また、死後に生まれ変わって極楽浄土で同じ蓮華の上に生まれ変わること」

引用:故事ことわざ辞典

伝統的な教えによると

ヨガの伝統的な教えが語られる叙事詩「バガヴァッド・ギーター」にも神聖さを表す言葉として登場します。

「すべての行為を絶対者ブラーフマンに捧げ、いかなる個人的執着も持たずに行為する者は、蓮の花が水に汚されぬように罪に汚されることがない」

第5章10節

何らかの恩恵を受けようとする欲によって行為することなく、執着から離れて行為できる者は自我意識に捉われずに行為できることがカルマ・ヨーガでは求められます。同様に蓮の花は、風が吹いて水に浸かっても再び浮き上がってきてもその葉は乾いています。これと同様に自分の行為に関する間違いによって汚されることはないと考えられています。

「アルジュナが(クリシュナ神)に言いました。神様。私は御身の身体の中に神々を見ました。あらゆる種類の生類の群れを見ました。蓮華に座した創造主ブラフマ神を見ました。すべての聖仙たちや竜王たちを見ました。」

第11章15節

万物の創造主とされているブラフマ神が蓮華に座している姿を見えたという神聖な存在をこの節においても讃えています。

プラーナと蓮の関係性

yogaでは、身体中をプラーナという「生気/エネルギー」がナーディという導管を通って巡っていると考えられています。この導管は、時に神経、血管や神経叢などと同様に捉えられることもあります。また生気エネルギーの集中する場所のことを「チャクラ」と呼びます。

チャクラは、人の身体を循環するエネルギーセンターとしての役割と「クンダリニー」という潜在的な神秘的エネルギーの源と捉えられ、ある種の認識や意識レベルを表すものと理解できます。この「チャクラ/意識レベル」はその段階によって、蓮の花びらの枚数と色で表現されます。

チャクラと蓮

蓮の花は、3つの異なった段階で存在します。これは地下茎、茎と葉(花)です。地下茎は、泥の中に存在し、茎は水中、葉or花は空気中に存在するとても珍しい植物です。

泥は無智という暗黒を表し、この無智から茎という努力(タパス)によって水中を上方に向かい、空気中に葉が達します。そして新鮮な空気と太陽という光を浴び、花を開きます。

蓮の花は、泥という無智から気づきという人間の成長のプロセスと同様と理解されます。これは「ムーラダーラ・チャクラ」に眠っているというクンダリニーという神秘的エネルギーの覚醒を象徴する、ヨーガの最終目標である解脱、チャクラシステムでいう「サハスラーラ・チャクラ」の解放をも達する過程を象徴する花として蓮華が扱われています。

心の性質とされているタマス、ラジャス、サットヴァへの進行もこの蓮の花やチャクラシステムの進行を表現し、人生の道すらも象徴する花として扱われています。

まとめ

蓮の花はあらゆる象徴として扱われ、非常に神聖な花です。気づきや努力を通した人生の質や心の成長、エネルギーのプロセスを描いたシンボルです。この蓮の花のように先の見えない不安の中でも人は1人ではありません。ヨーガにおいては、光という智慧によって導いてくれる「グルという存在に出会うことが最終目標であるとされるほどです。よって、善き指導者・師匠のもとでヨーガを行じる意味を再確認させてくれる象徴と捉えることができるのではないでしょうか。