人が行動を起こすには、心から発生する意図というものが重要です。その結果、行為としての運動が生じ、その行為から何らかの感覚や原理が脳へフィードバックされます。これは肉体に限ったことではなく、思考や感情にも同様なことが言えます。
身体的な動作を向上させるには、身体の構造を理解しながら実践する方が早く上達します。同様に、思考や感情を理解するには「心とは一体何か?」を知る方が理解しやすくなります。ヨーガは「心の科学」や「経験の科学」と言われています。5000年を超える経験から受け継がれた心の考え方をヨーガを通して解説していきます。
心の総称/チッタ
yogaにおいて「チッタ/citta」とは、以下の様な意味で用いられています。
- 心
- 注意
- 思考
- 意志
- 精神
- 知性
- 理性
「サーンキヤ哲学」において「プラクリティ」より転変(変化)したものとされています。「チッタ」は以下のものを全て総合した、心的なものの総称とされています。
- ブッディ
- アハンカーラ
- マナス
(※サーンキヤ(学派):インド六派哲学の一つ。同じく六派哲学のヨーガと理論的には同様とされる)
以下に順にみていきます。
ブッディ/覚
認識作用の本質で、精神的な作用の大本となっています。物事を理論立てて考える思考機能を司るもの。
アハンカーラ/我慢、自己感覚、エゴ
「アハンカーラ」は「我慢」「自我意識」と訳される言葉です。「アハンカーラ」は「これは私のものだ!」「これが私だ!」と自己に対する執着を引き起こします。
自我ではないものを自我と誤って認識すると自己本位な思考をとってしまいます。「アハンカーラ/エゴ」の働きを弱めていくことが「ヨーガの目的」ともされています。
マナス/意
人間馬車説」における手綱の部分のことです。身体レベルでは神経のような感覚器官の伝導路となるものが「マナス」です。「手綱/マナス」の作用によって、人の感覚器官(10頭立ての馬)をコントロールしていくことを目標とします。人間の機能を捉える基本となる考え方で、五感を通した反応を感覚器官から受け、「ブッディ/覚」である御者に伝える機能があります。覚とは、身体レベルでは認知と言い換えると理解しやすいと思います。
以上3つがチッタの中身です。
サーンキヤにおける2つの根本原理
サーンキヤ哲学」において、2つの原理として「プルシャ」と「プラクリティ」の二元論を展開し、この世の全てのものが、この2つのどちらかに属しているとしました。
プルシャ/真我、アートマン、純粋意識
人間五蔵説」において、歓喜鞘のさらに奥に鎮座すると考えられている真の自分のことを「アートマン」と呼んでいます。「プルシャ」は一切活動せず、ただ「プラクリティ」を観照する「観照者」であるとも考えられています。「プルシャ」は純粋清浄であり、永遠的に変わることのないものです。
よって、輪廻転生や伝統的ヨーガの目的である「解脱」も「プルシャ」にとっては何ら関係のない話ということになります。
プラクリティ/自生、根本原理
「プラクリティ」は根本的な質料因とされ、以下の意味を持ちます。
- 心
- 肉体
- 感覚器官
- 意識
転変するプルシャに対して、非常に活動的な存在とされている。
「プラクリティ」は、3種のグナから成り立っています。「プルシャ」の観照をキッカケに3種のグナのバランスが崩れ、変化していきます。
「チッタ」は、プラクリティから転変したもので、プラクリティとプルシャは異なります。しかし、「プルシャ」と「ブッディ」を同一と誤解している人は輪廻転生を繰り返し、「解脱」もできないと言われています。
解脱というとスピリチュアル要素が強く、受け入れ難いですが、意識と認知を誤って理解していると真理にはたどりつけないと考えておく程度で良いかと思います。
チッタをもう少し詳しく
「心素/チッタ」は、内的心理器官の中の記憶を司る心の臓器です。要するに意識作用のこととされています。
つまり、意識作用の完全なるセルフコントロールを目標とするには、相対的に対立する感情の克服が必要とされるということになります。「チッタ」は、感情や記憶などが混在されていると考えられているが、記憶も断片的なものに過ぎず、この記憶自体は、「歓喜鞘」に含有されているため外部からの刺激からは直接には反応しません。しかし、この断片的な記憶を利用するのが【理智】である覚の機能です。記憶に対して理智が特定の意味付けをしているといことです。ヨーガセラピーのターゲットになるのも、この「理智鞘」であり、瞑想を用いてアプローチしていきます。
反射的に状況を判断し、行動させている主は理智の作用と考えることができます。「チッタ」は、理智の目的として利用され、反射的な症状発現がなされるPTSD等においても同様と考えることができます。
二極の対立感情
例えば、
- 「私は○○である。」
- 「○○大学を卒業した人間である」
- 「○○会社の社長である」
これらの社会的、相対的関係のなかで自分を規定する想いのことを対立感情と言います。
ヨーガを行じるのに必要なのは、こうした「相対的な対立する感情の克服」をすることです。相対的な物事への感情の克服から始まり、自分は「この肉体では無い」という境地まで「自分は○○ではない」、「自分は○○ではない」という作業を繰り返し、最終的に「自分はこの世を維持し、進化させる存在と同一である」という境地に至らしめる手法がヨーガといえます。
この対立する感情を克服するやり方としてヨーガ・スートラでは次のように規定しています。
「心素の働きの止滅は、勤修と離欲によって、成し遂げられる」
(ヨーガ・スートラ第1章12節)
つまり、繰り返しあきらめることなく、自分を無くして行くように努力することです。繰り返し努力して、無執着を目指し、無執着に至り、解脱したとき、内在する神性と一体化するとされています。
(なんかよりスピリチュアルな感じが強くなってきましたがお付き合いください・・・)
また、「スワミ・ヴィヴェーカナンダ大師」曰く、
『各人は神性を持っている。従って人生の目的とは、自分の行動を通し(カルマ)、神様を礼拝し(バクティー)、精神を制御し(ラージャ)、また考え方を練り(ギャーナ)つつ事物から自立するという、自分の内と外にある事物の働きを制御することで、内なる神性を表すようにして生きることである』
この言葉から、「ヨーガの目的=人生の目的」または、「ヨーガ=生き方」であると言われる由縁です。
純粋意識と究極の意識
普段の私たちの意識は、二極の対立感情のモードとなっています。
これまで解説してきました「プルシャ/純粋意識」や「究極の意識状態」と呼ばれる意識状態とは大きく異なっています。理想とされる意識のモードは、「変化しない意識」や「意識の源」とされています。この意識状態を理解していると普段の生活での私たちの意識が純粋なものではなく「二極の対立感情」の意識モードになっていると気づくことができます。
この不純な意識に気づきを得るとそこから離れようとはできます。これが伝統的ヨーガが教えていることです。
この「不純な意識」は、「理智」や「心素」と考えることができるのですが、意識化することができるのは、「理智」の意識です。
理智の意識を客観視することが、現代では「マインドフルネス」と呼ばれている方法のことです。
「不純な意識=理智の意識」を客観視することで、「誤認知」や「執着」している事柄への気づきが可能となります。この気づきを得ることが何よりも重要です。
なぜならば、病気の原因とされているのが、物事に対する「無知さ」だからです。
「気づき」を得るためにも段階的に力をつけていく必要があります。これらを提示しているのが、「アシュタンガ・ヨーガ」に示されています。
「アシュタンガ・ヨーガ」では、まず対社会次元での自己客観視が求められます。第1,2段階目の「ヤマ」「ニヤマ」が該当します。この次に肉体、エネルギー次元と段階的に実習していくことが必要になるということです。
「ヨーガの諸部門を修行してゆくにつれて、心の不浄さが次第に消えていきそれにつれてやがて識別智を生じさせる智慧の光が輝き出す」
(ヨーガ・スートラ Ⅱ−28)
ヨーガを段階的に実践していくことで、「不純な意識」と「純粋な意識」を識別していけるようになるということが上記の節で解説されています。
ヨーガのトレーニングを習慣化することによって、意識的に客観視をしなくても物事の識別/区別ができるようになります。
この境地が所謂「生前解脱」の意識状態とも呼ぶことができます。
よって、ヨーガを日常的に実習することで、社会にどんなに混乱が生じ、ストレスがかかったとしても心を動揺することなく、安定した状態を保つことができます。
これらが現代社会の中で求められている「ヨーガ」の目的と言うことです。
まとめ
- 心理器官は、プラクリティから転変したもの
- 転変は、プルシャの観照をキッカケに起こる
- グナのバランスを維持するには、客観視が必要になる
- ヨーガ修行は、二極の対立感情から純粋な普遍なる意識へと転換させる
- 不純な意識を客観視するためには、アシュタンガ・ヨーガ