全世界的にヨーガへの関心が高まっています。
現代の複雑化されたストレス社会によってもたらされた病に対し、現代の医学モデルでは対応困難となっているのが大きな理由でしょうか。
ヨーガへの期待も肉体的な強靭さにとどまらず、心身の健やかさという効果に高い関心を示しているのが特徴です。これは日本に限らず世界の先進国で注目を集めている点から「心身相関」に関する問題が顕在化しているということを示しています。
ヨーガの効果については、医療機関での研究も現在為されていますが、ヨーガ指導の方法も統一化されていません。明らかに危険な方法が指導され、有害事象が発生しているのも事実です。
健康のために実施していることで怪我をしてしまっては、本末転倒です。
よって、ヨーガが良いからといって盲目的に信頼するのではなく、自らで判断できるようにする為にはある程度の知識と捉え方が必要になってきます。なぜなら、自分で判断していかなければ問題は解決することはないからです。
自らの船の舵は他人にまかせず、病気は自らの意志で予防・治療していく
この「セルフケア」という考え方が今後の医療の中心となってくるのは間違いありません。
yogaの基本知識の導入編として、以下の内容を記載していきます。
- 5000年以上と考えられているヨーガの歴史について
- ヨーガ発足当時の社会と現代社会との共通点について
- なぜエゴの働きを弱める=ヨーガなのか
- ヨーガの歴史から現代社会の問題点が露呈している
現代で語られていヨーガの基本的な歴史を順に紹介していきます。
歴史
5000年前のインダス文明の都市遺跡からヨーガ行者らしき型をした人物像が出土しました。
現在、この地は砂漠化し、文明の都市遺跡は砂漠の砂を掘り起こして調査研究が為されてはいますが、都市国家の遺跡の中からヨーガ行者と同じく両足を組んで座る人物像を彫り込んだ小さな印が発見されています。
その人物像の頭上には、現在のヨーガ行者がよくしているように長い髪を団子状にして丸めてのせているので、この座像が彫られた「5000年前には、既にヨーガの瞑想修行を行じる人間たちがいたのではないか?」という意見が出ています。
これがヨーガの歴史が5000年以上と呼ばれている由縁です。
働かずに座っているのは何故か
「なぜ働らきもせずに足を組んで座っているような人間の印がこの地に出てきたのか?」
この問に対しては、文明というものがどういうものかを考えてみれば推測できます。
古代文明は大河のほとりに栄えたという一つの法則があります。
- エジプト:ナイル川
- メソポタミア:チグリス・ユーフラテス河
- 中国:揚子江
- インド:インダス河
今から5000年前に人々が大河の周りに集まった理由は、水を得るため以外には理由はありません。
当時地球の北半球の中緯度地帯は乾燥し、砂漠化していました。人々は大河の周りに集まらざるを得ない状況が生じていたと考えられます。
当時、既に麦や米を栽培するには、水が自由に得られない状況では困難です。よって人々は大河の周辺に集まり、水と土地を早い時点で得たものは豊かな収穫を自分のものにできる立場に立てたと考えられます。
優者と劣者の違い
では、もし
「水と土地を得られなかった人々はどうなるのでしょうか?」
「水」と「土地」という当時の重要な資源を得た者の下で働くことを強いられたと考えられます。
これは現代社会と似たような構造となっています。ここに現代にまで続く、「持てる者/持たざる者」との差異が人間社会に生じました。即ち、
【高い生産力を手にした者】VS【低い生産力しか手にしていない者】
=
【優者VS劣者】
この構図は大量生産と大量消費をめざす産業革命を経てきた現代社会において更に強調され、バブル経済を経験した日本社会においてもまだ、人間の優劣を生産高で決める評価がされています。しかし、私たちの常識では、人間の評価は決して生産性の高低だけでは言い表すことはできません。
なぜなら生産性の高い人間でも品性、人品が限りなく低い人間はたくさんいます。逆に、身体に障害を持ち、生産性が極めて低い者であっても、人の心を揺さぶるような素晴らしい行為を為す人も存在します。
今や死にかけている程の状態に陥っている人間でも、素晴らしいと感じる行為が出来る者もいます。
生産性だけが人を計るものではない
カルカッタに生きた「マザーテレサ氏」を引き合いに出すまでもなく、そうした偉人は世の中に沢山数え上げられます。
金銭などの生産性に依るのではなく、別の人間評価に関する規準が存在することに、文明勃興の早い時点で気づいた人たちがインダス河流域には存在し、ヨーガの智慧を地上で最初に伝え始めたと考えられています。
(引用:日本ヨーガ・ニケタンHP)
ヨーガの目的
ヨーガを実践する全ての者の必読の書とされる、パタンジャリ大師編纂の【ヨーガ・スートラ】には、ヨーガについて次のように書かれてます。
「YOGAS CHITTA VRITTI NIRODHAH」
“ヨーガとは、心の作用を止滅することである“(ヨーガ・スートラ第1章第2節)
このスートラで、パタンジャリはヨーガの目的を示しています。
他の全てのスートラは、この一つのスートラの説明に過ぎないとも言われています。「心の作用の止滅」が成し遂げられたならば、その人はヨーガの最終目標に到達したことになります。
そもそもヨーガとは何か
【ヨーガ】 (योग) は、「馬と馬車を繋ぐ、結合する、和合する」という意味の動詞yuj(ユジュ)から派生した名詞です。馬を馬車に繋ぎ、その馬を上手に制御しながら目的地に到達することを目指します。外部環境に振り回されないように感覚器官や心をコントロールして「三昧」という深い境地に入ることであるとされています。
つまり牛馬を御するように心身を制御するということを意味しています。
これはヨーガにおいて重要な考え方となる「人間馬車説」の考え方です。
また、「結びつける」という意味から、ヨーガを「神と自己、男性原理と女性原理、大宇宙と小宇宙」を結びつけるという考え方もあります。
心の基本となるもの
強靭な身体にこそ魂が宿ると考えられており、肉体は非常に大切な器です。
ヨーガの「アーサナ」によって、強靭な肉体を作ることができることはイメージできますが、
「心を強くするためにどうしたらよいのか?」
このように考えたときには、まず「心」とは何かと考える必要があります。
「ヨーガ:では、心の総称を「チッタ」と呼んでおり、
- ブッディ
- アハンカーラ
- マナス
「チッタ」からこれらの「内的心理器官」と呼ばれる心の基本が転変すると考えられています。特に「アハンカーラ」から、自己に対する執着を引き起こします。
- 我慢
- 自我意識
- エゴ
日常生活で「これは自分のものだ!」「自分が行った!」などの心の働きが「アハンカーラ」によるもので、
アハンカーラ/我執=プルシャ/真我
このように理解している間は、人間は輪廻を続けなければいけないと考えられています。
まとめ
我執:自分の小さな考えに執着すること。いわゆるエゴ
真我:本当の自分
周囲との調和も考えずに自分の欲に執着して生きることを「本来のあるべき姿」だと誤解することは、自己中心的な思考です。しかし、欲にかられた人間は無自覚的にこの思考に陥り、この思考に則った行動してしまうほど、弱いものなのです。
ここから、「エゴ」の働きを弱めていくことがヨーガの目的であると考えることができます。
その道筋が数々のヨーガの経典に示されており、
- エゴの働きを弱める
- 心身を調和する
- 三昧に至る手段
これが「伝統的ヨーガ」です。
しかし、現代ヨガで三昧に至るのは困難です。
よって、「ヨーガ療法において目的」と「伝統的ヨーガの目的」は異なるものであるという理解が必要になります。ここに至る手段と目的の両者を兼ね備えているのは、現在では「ヨーガ」以外には存在しません。