「リハビリテーション」は、「全人間的復権」を目指します。
全人的復権とは、以下の内容を指します。
- 元の適した状態に戻る
- その人らしく生きる権利の再獲得
まったくの元の状態に戻ることは困難なことがあります。また、最終的に元の状態かどうかを判断するのは自分自身です。
セラピーにおいて、患者とセラピストとの関係性はある種のカップリングです。セラピストとクライアントはそれぞれが独自に機能するシステムですが、連動し、その中で能力を一段と高めていくことが可能な関係性です。根本的な解決を図るためには、クライアントの主観的な世界にセラピストが入ることが必要になりますが、関係性が構築できていなければ、主観的な世界のドアを開いてもらえない場合もあります。
人生の質を意味する「QOL」という言葉は一般的になってきました。しかし、日本は「高齢化」「医療技術の進歩」によって、積極的な回復ではなく「死」を迎える方に対してサポートしていく中で、「QOD」という考え方が生まれています。
今記事では、以下の内容をテーマに解説していきます。
- 「死の質/QOD」について
- 「QOD」の考え方や高める条件
- 生と死の関係性について
- 死に方を自分で決められるのは稀である件について?
理学療法士はQOLを高める
「理学療法士」の仕事は、「QOL」を向上することです。
その人らしく生きるサポートをすることだと簡単に捉えていましたが、これが実際の現場では困難な場合が多々あります。当たり前ですが人それぞれに価値観があります。
そして、本当の希望を訴えることができずに、悶々と在宅生活を送っている方がたくさんおられます。そこには選択肢がなく、他人が敷いたレールを営むしかないということです。
選択肢がない生活というのは、自由な意志が働きにくく、生きづらさが生じます。
自分の人生なのだから、責任は自分にあります。その選択を自分でできることが、本来の「その人らしい生活」「QOLの高い生活」と考えられます。
自分の人生の舵取りを人にまかせてしまうことになると「自由度のない=QOLの低い生活」となる可能性があるということです。舵を取るということは、自ら選択することができるということです。
選択に関しては、本人に責任があります。しかし、選択による結果は本人だけの責任ではなく、周囲がサポートするという姿勢が世の中には求められはずです。それが公助、互助、共助の関係性です。このスタンスが薄れている個人主義が目立つのが現代社会の大きな問題だと考えています。
障がい受容
「障がい受容」とは、一般的に以下の過程を一方的に進むものと教えられました。
- ショック期
- 否認期
- 混乱期
- 努力期
- 受容期
中途障がいではなく、高齢者であれば進行性の「老化」と呼ばれる病が慢性的に押し寄せてきます。
これに抗するように、「私はまだまだ若いものには負けない!」という心と身体との解離が目立ってきます。頭ではわかっていても自分のこととなると客観的に判断できなくなるものです。
「健康的でいたい」というバイタリティを持っていることはとても素晴らしいと思います。しかし、未来でも過去でもなく、「現在」の自分を客観視し、理解に努めて楽観的にいることが大切です。
楽観的な状態でいるには、普段から客観視のトレーニングが必要になってきます。
その方法とは、以下のようにすることです。
- 自我を向上に努め
- 心をコントロール
それには「理想形」になる目標が必要になってきますが、現代教育では薄れ、身体や心を専門に扱うセラピストが理想形を持っていない場合が問題です。学校教育では道徳であったり、宗教性というところです。
この方法は、「伝統的ヨーガ」が教えてくれています。
QOLとQODとは
「QOL」とは、「クオリティ・オブ・ライフ」の略のことで、「人生」または「生活の質」とされます。
クオリティ・オブ・ライフ(英: quality of life、QOL)とは、一般に、ひとりひとりの人生の内容の質や社会的にみた生活の質のことを指し、つまりある人がどれだけ人間らしい生活や自分らしい生活を送り、人生に幸福を見出しているか、ということを尺度としてとらえる概念である。
引用:Wikipedia
また
人々の生活を物質的な面から数量的にのみとらえるのではなく、精神的な豊かさや満足度も含めて、質的にとらえる考え方。
医療や福祉の分野で重視されている。生活の質。人生の質。生命の質。
引用:大辞林 第三版
一言で言うと、「自分らしく満足して生活できているかどうか」を表す概念のことです。
これに対し、「QOD」とは「クオリティ・オブ・デス」の略です。
生に対して前向きな姿勢を問う「QOL」に対し、「QOD」では、「どのような死を迎えるかを問う」考え方です。
死の迎え方は多岐にわたり、医師中心から「患者中心の医療」に転換し、無用な延命治療を拒否する人も増えてきました。
LifeからDeathへの思考の転換
人の生命は有限なもので、誰しも必ず「死」を迎えます。
頭ではわかっていても受け入れられない。それは有限な生命を無限なものとして捉えていることです。「ヨーガ」においては、これを「無知さ」と表現します。「無知さ」は様々な病気発現の根源となると「ヨーガ」では考えられています。
(「無知さ」が生み出す病気について。yogaの病理論については以下をご参照下さい)
「死」が遠い場合は、「QOL」を問うことに意味はありますが、「死」を考える時期や状態になれば「死」と向き合うことが増えてきます。目を背けることは、「目隠しをして車を運転する」のと同じです。
舵やハンドルを他者にまかせると「自分らしさ」は低下します。依存であったり、責任転嫁構造に陥るリスクすらあります。ここで死に対しても直面する勇気が必要になります。
死にもクオリティがある
命あってこその「人生」に質があるように、もちろん「死」にも質が存在します。
「死」に抵抗しようとすると、逃れられないものと戦うことですので、いつかは疲弊し、さらに質は低下していくことになります。
「生と死」は、表裏一体です。言い換えると「人生の質」を考える事は「死の質」を考える事であり、「人生の質」を高めることは、「死の質」を高めることにつながるということになります。
根治しない治療は望まない
私の元担当患者さんのご主人に「人工透析を断った方がおられました」
医師や家族に再三勧められていましたが、ご本人の意志で拒否し、はじめはお元気そうでしたが、すぐにお顔をみることが少なくなり、亡くなられました。失礼ながら「拒否」する理由を伺うと「治すためでない自分の延命治療の為に若い人たちの負担をかけたくない」と教えて頂きました。
「透析治療というのは確かに治すのではありません」しかし、身体的、精神的、社会的に楽に暮らすことはできたと思います。しかし、人生の質をさらに1側面加えた、「宗教性」という観点から捉えた時にはどうでしょうか?ということが問題になってくるのではないかと思います。
「透析を受けない」という判断を自らの意志でされました。また最終的にご家族もご本人の意志を尊重されました。奥様のご主人の意志を尊重する姿勢は、本当に個人として尊敬されてこられていた人生だったのかな?と勝手に解釈しています。
この場合、あくまで個人的な解釈ですが、死を自ら選び「QOD」は高かったのではないかと考えています。
自分の舵は自分でもつこと
上記の例は、他者として観察して高い「QOD」だと考えられますが、妄想に過ぎません。本当のところはわからないのは承知しています。心の声や本当に感情をお伺いできたわけでもありません。しかし、「自らの意志で選び」「受け入れる」これらに加えて、「周囲も本人の意志を尊重した」という自由に選ぶことができる環境にあったということを考慮すると、「質が高い=自らの意志で判断できる状態にあり、受け入れる勇気があった」ということが、言えるのではないかと考えられます。
まとめ
- 生死は、表裏一体
- 自由意志と受容する勇気がその人らしさには必要になる
- 周囲に受け入れてもらえることも必要なので、家族との関係性も重要になる
- 死を扱う人には、人生の「理想形」をもっていることが求められる